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●● 熱き思い
彼で笑えなかったら誰で笑うのさぁ!彼を知らない人は、人生の笑い85%を損している....
その位に思うのが、リチャード・プライヤーの笑い。コントからジョーク、下ネタから政治ネタ、モノマネにパントマイムという幅広い笑いの中で全てにおいて才能を発揮するのが、リチャード・プライヤーだ。普通のコメディアンは得意分野があって、さらに苦手分野がある筈なのに、このプライヤーには存在しない。近代コメディのスタイルを作り出した一人者。近代コメディの神様のような存在だ。
映画に関して言っても、主演が出来るコメディ映画から、「ビリー・ホリデイ物語/Lady Sings the Blues」のようなシリアスドラマでのバイプレイヤーとして、「Greased Lightning」のようなアクション映画でもスピード感のある演技等、様々のジャンルで本領を発揮する才能溢れる俳優だった。
晩年も、コメディへの愛情は相変わらずだったようで、コメディのドキュメンタリーのプロデュース等もしていたようだ。「デイブ・シャペル・ショー」を楽しみにし、シャペルがアフリカに逃避行した時にも唯一理解を示したコメントを出していたのも印象的。
私達は、こんなコメディの神様にスクリーン等を通して出会えて幸せだったと思う...
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●● バイオ
イリノイ州のぺオリアという小さな町で生まれたリチャード・プライヤー。母方のお婆さんが売春婦を営む家だった。自分の母もそこで働き、プライヤーをあまり面倒見なかったようだ。レイプや、自分の教会の司祭から性的いたずらをされたり、自分の母がぺオリアの市長とベッドに居る所を見たり...と、小さい頃はかなり不幸な体験をしている。家から逃げるように通ったのが、映画館だった。そこでは、ジョン・フォードやハワード・ホークスの映画を見て楽しんでいた。12歳の時に学校の先生の進めで出演した舞台「Rumplestiltskin」に出演し、その先生がプライヤーのコメディの才能を発見し、プライヤーがタレントショーに出れるように設定してくれたりもした。
14歳で学校を退学させられたプライヤーは、掃除夫や靴磨き、ドラマー、肉詰め、トラックの運転手などをして働いていた。18歳になると、アメリカ陸軍に所属したが同僚の軍人との口論になり20歳の時に除隊。地元に戻り「Harold's Club」に出演し、歌やピアノを演奏するがあまりも酷かった為に、観客はプライヤーのジョークに笑いだし、それからはコメディアンとして舞台に立つ様になった。イリノイ周辺のミッドウエストを中心に廻っていたが、当時人気だったビル・コスビーを習い、23歳にてニューヨークに移動した。その頃には、ボブ・ディランやウッディ・アレンに出会い、良き相談相手として友情を築いた。そしてテレビにゲスト出演するようになり、当時人気のエド・サリバンやジョニー・カーソンのTV番組等にゲストに出演するようになると、ボビー・ダーリンのオープニングアクトとして、ラスベガスの舞台にも出演するようになる。所が、ビル・コスビーのスタイルとは違うプライヤーの過激なスタイルは、ラスベガスで受け入れられなかった。ロサンジェルスに滞在中に同世代のコメディアンのポール・ムーニーと出会う。そこでムーニーと共にムーニーが育った町であるカリフォルニアのバークリーに移る。そこでは、作家のイシュメル・リードやブラックパンサー党のヒューイ・P・ニュートンとの交友を深めた。ムーニーに寄れば、その頃はマルコムXの書籍ばかりを読んで居たと言う。その後何年かして、いよいよハリウッドに進出する。
ハリウッドでは、1967年の27歳の時にウィリアム・キャッスルの「The Busy Body」という映画に出演する。アーロン・スペリングがプロデュースした戦争TV映画「Black Brigade」等にもロバート・フックスやロジー・グリア等と出演し、その頃にコメディアルバムも録音した。ダイアナ・ロスとビリー・ディ・ウィリアムスの「ビリー・ホリデイ物語/Lady Sings the Blues」のピアノマンを演じ、一躍注目を集めるようになる。その頃に自身のプロダクション会社「Indigo」を設立した。
またテレビシリーズ「The Flip Wilson Show」では1973年から参加し、レッド・フォックス等と共にほぼレギュラーで出演し、番組もプライヤーも一躍人気となった。しかしフリップ・ウィルソンの麻薬を麻薬調達人の女の子から回してもらっていたのがバレて激怒させる。
1977年には自身の「The Richard Pryor Show」が開始、その過激な内容とプライヤーの才能により、番組はヒットしたが、過激だったためにすぐに終了した。
1980年代になると、コメディアルバムのヒットなどで、一躍ナンバー1の称号を手に入れたが、同時に様々なドラックにも益々はまっていく。スキャンダラスな噂が多かったが、映画では主演を勤めるなど順調だった。「スパイダーマン3」では、その破格な出演料も話題になったと共に、コメディアン俳優のステイタスも一気に上げるのに一役かった。80年代には、ジーン・ワイルダーと共に次々とコメディ映画をヒットさせた。1982年には自身のスタンダップコメディの映像が映画化されるなど、飛ぶ鳥落とす勢いだった。
ドラックの過激な使用により徐々に体を蝕まれ、1986にMultiple Sclerosis(多発性硬化症)を発病。その後も車椅子生活を続け、映画やテレビにゲスト出演などを続けて、1995年に「シカゴ・ホープ」にゲスト出演した演技で、エミー賞にノミネートされた。
2005年、65歳の誕生日を迎えたばかりの12月10日に以前から患っていた多発性硬化症によりハリウッドの自宅にて他界した。
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●● トリビア & etc...
7回結婚(2人の女性とは2度)。パム・グリアとも「Greased Lightning」の共演をきっかけに6ヶ月ほど付き合っていた。
映画「Jo Jo Dancer, Your Life Is Calling 」は、プライヤー自身の自伝的映画。自身で監督もしている。
好きな曲はマーヴィン・ゲイの「What's Going On」。
日本の物が好きで、日本刀などを集めていたという。またハワイのハナに日本庭園や日本家屋調の別荘を所有していた時期もあり、日本人のメイドを雇っていたとの事。
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●● 受賞歴
>> American Comedy Awards, USA
1993 - Lifetime Achievement Award in Comedy >> BAFTA Awards 1975 Nominated Best Screenplay for: Blazing Saddles >> CableACE Awards 1994 Won Entertainment/Cultural Documentary or Informational Special for: Mo' Funny: Black Comedy in America >> Emmy Awards 1996 Nominated Outstanding Guest Actor in a Drama Series for: "Chicago Hope" 1983 Nominated Outstanding Individual Performance in a Variety or Music Program for: Motown 25: Yesterday, Today, Forever 1974 Won Best Writing in Comedy-Variety, Variety or Music for: Lily (TV) >> Image Awards 1996 Nominated Outstanding Supporting Actor in a Drama Series for: "Chicago Hope" 1996 Won Lifetime Achievement Award >> New York Comedy Festival 1997 Won Lifetime Achievement Award >> Razzie Awards 1984 Nominated Worst Supporting Actor for: Superman III >> Walk of Fame unknown - Star on the Walk of Fame Motion Picture At 6440 Hollywood Blvd. >> Writers Guild of America, USA 1975 Won Best Comedy Written Directly for the Screen for: Blazing Saddles |
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●● リンク
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●● インフォサイト
http://imdb.com/name/nm0001640/http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Pryor http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=18778 |
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